2016年12月12日月曜日

「どんな試練にも、キリストはそばにおられる」

「イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、……おじ惑い、……しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、『しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない』と言われた。」(マタイ14:25~27)

 わたしたちは見張っていなければならない。キリストは、見張り、祈りなさいと仰せになった。このお方はわたしたちを誰一人も惑わしたりはなさらない。このお方はわたしたちを高いところへ連れて行き、イエス・キリストを信じる信仰を持ちたいと望むすべての人々に敵対して隊列を組んでいる悪の同盟と闇の主権者たちの力をわたしたちにお示しになり、そしてわたしたちに代価を勘定してみるようにとお命じになる。しかし、このお方はわたしたちのためにもっと多くのことをなしてくださる。このお方はさらに多くの励ましを与えずにわたしたちをそこに置き去りになさることはない。このお方はわたしたちに試練と闘争を示しておきながら、わたしたちに戦いを戦うための助けを与えずにおかれることはない。そうではなく、このお方は神には救いを受け継ぐべき人々に、奉仕するためのご自分の御使たちがいることを教えてくださる。このお方の御座の周りには、千々万々の御使たちがいるのである。
 彼らの働きは何であろうか。それは自分たちの主人であられるイエス・キリストのご命令を行うことである。では彼らは何をするのであろうか。彼らはあなたにキリストがあなたを選ばれたのだということ、天使たちがあなたと共にいるということ、そしてあなたのそばにとどまっているということを教えるのである。あなたはもろもろの支配と権威とまた天上にいる悪の霊に対して戦うために、ほんのわずかな力しかないかもしれない。しかしここに、どんなに強かろうと弱かろうと、すべての魂が……[勝利]できるために天より送られる助けをあなたに指し示すお方がおられる。……
 わたしたちはイエス・キリストが死なれたことを信じると言う。しかし、このお方はあなたの個人的な救い主であられるであろうか?ここに信仰の役割がある。……あなたは生きた信仰の手でこのお方をつかんでいるであろうか。あなたはこのお方に手を伸ばし、そしてペテロのように「主よ、お救い下さい、わたしは死にそうです」と言うであろうか。このお方はあなたを救ってくださる。あなたはそこで弟子たちが舟を何とかしようと骨折り、ついに陸に着く望みをまったくあきらめてしまったことを覚えている。彼らは非常に恐ろしい危険のさなかに、あわ立つ大波の上をあたかもどっしりとした地の上を歩いておられるかのように、自分たちのほうへ向かってこられるお方を見、非常に恐れて言った、「あれは幽霊だ」。しかし、キリストは「わたしである。恐れることはない」と仰せになるのである。
ああ、「わたしである」という言葉にはどれほど意味があることであろう!それはわたしたちが問題や困惑のうちにあるとき、わたしたちにとってすべてを意味する。あなたはこのお方のみ声が聞こえないのであろうか。あなたはこのお方が「わたしである。恐れることはない」と仰せになるのが聞こえないのであろうか。……このお方は自らわたしたちに語ってくださる。あなたの弱さや試練が何であっても、キリストはあなたのそばにおられる。このお方は「わたしである。恐れることはない」と仰せになるのである。……
 かつてだれか一人でも、イエスに向かって[自分の]手を上げて、「主よ、お救いください、わたしは死にそうです」と言ったのに、イエスが[その人を]通り過ぎてしまわれたことがあるであろうか。決して、決してそのようなことはない!このお方は最も弱々しい叫びをも聞いて下さるイエスであられる。わたしたちはだれ一人、弱ることも、叫ぶことも、失望もする必要がない。わたしたちは弱る必要がないのである。わたしたちもペテロのように、自分たちの周りを取り囲む闇や試練を見るかもしれないが、……主は、ペテロの手を取られ、彼は救われた。そして同様に、わたしたちにも救い主がおられるのであって、すべての試練において、わたしたちはイスラエルの主なる神に信頼すべきである。そのとき、このお方はわたしたちの助け主となられるのである。(原稿10, 1891年)

2016年12月10日土曜日

み座のいちばん近くには

「み座のいちばん近くには、かつてサタンの業に熱心であったが、火の中から燃えさしのように取り出されて、熱心な信仰をもって救い主に従ってきた者たちがいる。その次には、虚偽と不信仰のただ中にあってキリスト者の品性を完成した者たち、それから、キリスト教界が神の律法は無効であると宣言したときにも律法を尊重し続けた者、さらに各時代にわたり、信仰のために殉教した無数の人々がいる。そしてその向こうには、「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣をまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と子羊との前に」立っている。(黙示録7-9)」                   ~各時代の大争闘 大争闘の集結~

へりくだり

 「わたしたちは神のみ前に日ごとに自らをへりくだらせるべきであり、また、自分の知恵が完全だと感じるべきではない。わたしたちは熱心に働きに取りかかるべきである。わたしたちは神に自分たちをへりくだらせて下さるよう祈るべきではない。なぜなら、神がわたしたちをつかまれる時には、わたしたちが喜ぶことができないような方法でわたしたちをへりくだらせられるからである。そうではなく、わたしたちは日々、自らを神の力強い御手の下にへりくだらせなければならない。わたしたちは恐れおののいて自分自身の救いの達成に努めなければならない。神がわたしたちのうちにご自身の喜ばれる願いを起こさせ、かつ実現に至らせて下さるのであるが、わたしたちはこのお方がわたしたちを通して働かれるときに協力しなければならない。わたしたちは自尊心のうちに自分の魂が高ぶることに対して用心しなければならない。しかし、あなたは次のように言うであろう、わたしはどのようにして自分の心にキリストがおられることを知ることができるだろうかと。もしあなたが批判されたり、あるいはあなたの道を正されて、こうなるべきだと自分が考えるとおりにならないとき、もしそのときにあなたが矯正をしのび、忍耐強く親切である代わりに、激情が起こるのを許してしまうなら、キリストは心のうちに宿っておられないのである。
 キリストは人を贖うためにご自身の命を与えるほどの価値を人の上に置いておられる。そしてこのお方はわたしたちの存在のすべての力と機能がご自分に完全に服することを要求される。しかし、わたしたちはカルバリーの十字架によって神がわたしたちを評価される光のうちに自分自身を評価するばかりではない。親切、礼儀、寛容によってわたしたちのへりくだりを示すことを恐れないようにしよう。自己が起き上がって、彼らが誤った報告で傷つけようとしているのは、わたしであると考えないようにしよう。」(レビュー・アンド・ヘラルド1887 年7 月12 日